こんにちは、カズマグナムです。


いつもはフランス語の記事やフレーズをだらだらと紹介しているのですが、今日は今更ながらアニメの「エヴァンゲリオン」について頭に溜まっている思考を吐き出しておきたい気分になったので、超自己満足的な内容を書いてみたいと思います。ちなみに内容の解説・考察的な記事は巷に溢れているので、そういったものはあまり書くつもりはありません。

一体唐突に何なんだ??って感じですが、25年も前にテレビで放映されて以来断続的に作品がリビルドされて愛され続けていた類まれなメガコンテンツであるエヴァが、最新作「シン・エヴァンゲリオン」としてついに終局を迎え、なんだか感極まって思いがあふれてきてしまったので、それを浄化したいがための記事ってことで、興味のない人はスルーしてくださいまし!



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これまでのアニメ版や旧劇場版では「終劇」と言いながら全然終わった感がなく、むしろ様々な解釈や疑問を喚起するような、一切を観客に委ねる「放置プレイ」的な内容だったので、もしや今回も??というファンの声も多かったようですが、いやはや、もうどうしようもないくらいに「終劇」を迎えましたねー。勿論色々な捉え方や「その後」を巡る論争はあると思いますが、とにかく終わった。嬉しいような、悲しいような。いや、「悲しい」の方が圧倒的に気持ちとしては大きいけど、いつまでもズルズルってわけにもいかないよなー、と自分に言い聞かせています。






なんかものすごく愛にあふれてますって感じで書いてますけど、ちなみに僕自身はテレビ放送時からの往年のファンとかでは全然なくて、ここ一年の間で作品をひたすら観るようになったっていう、まあいわば「超にわか」なのですが、普段それほど特定の作品にはまることがない僕からすれば、エヴァに関しては何度も何度も同じ作品を観返している今の自分がいて、それに驚きを感じています。


特にアニメに関しては僕は普段ほとんど観なくて、これまでにのめりこんだ数少ない作品といえば「ジョジョ」「攻殻機動隊」くらいなものかなー?小学生くらいのときには通り一遍のアニメはもちろん観ていたけど、ずっと好きだっていう作品はそれくらいなもんです。この2つも一筋縄ではいかなくて、だからこそ僕にとっては「何度も読みたくなる・観たくなる」作品ですねー。そこに新たに「エヴァ」が加わったって感じです。アニメにそれほど没頭していない僕ですら夢中になるくらいなんだから、やっぱりエヴァってすごいコンテンツってことですね。






で、エヴァって一体何が面白いんだろう?って改めて考えてみると、映画に限らず本でもそうなのですが、多分僕はどちらかというと「わかりやすい」とか「すっきりする」ような作品にはあまり惹かれなくて、観た後に「??」がいっぱい残るようなものに魅力を感じるところがあると思います。「分かりやすい」作品は一度観たらそれで満足してしまってもう一回観ようっていう気にならないし、観客にわかりやすいように作ろうっていう「作者の媚び」みたいなものがある気がしてどうしても冷めてしまうんです。

一方でエヴァは「難解」ってよく言われるけど、それは作中で出てくる言葉や状況について明確な説明が一切なくて、観客に理解できるようにしようっていう姿勢が全くない(勿論良い意味で)ところがその理由だと思います。「媚び」の対極にある姿勢。「もっとわかりやすくしろ」っていう声もあるっぽいですが、でも僕はそれこそが作品の魅力なんだと思っています。観客に一切を委ねるってことは、ある意味観客を信頼しているというか、対等な存在として考えているからなんじゃないかなー。「お前らには説明しないとわからないだろ」みたいな傲慢さがないというか。。それに、分かりやすい作品だったら皆これほど夢中にはならなかったと思うなー。色んな解釈や考察が渦巻いて盛り上がるっていうのも、難解だからこそですよねー。フランスの詩人ポール・ヴァレリーが言うところの「詩的なもの」って、こういう作品のことを言うんだろうなーきっと。



詩的なもの。観客を立ち止まらせる、宙づりにする、観客に不意打ちを与えるような作品。観客の意識を覚醒させる、思考を喚起させるような作品。



(ただ、今回のシン・エヴァについてはいささかキャラクターによる説明的なセリフが多くて、詩的魅力という観点から言うと少し残念に感じてしまう所がチラホラあった気がします。。うーん、、)





あと、僕自身今まで全然観なかったのに今になって面白いって感じるようになったのは、多分それ相応に年を取ったっていうのも1つあるんじゃないかなーと思ってます。仮にタイムリーに観ていたとすると、テレビ放映時は10歳くらいってことになるのですが、そんな年齢でエヴァを観たって多分全然理解できないし、「わけわかんねー」で終わってしまって、そのせいで「もう二度と観るか」ってなってたかも。そのくらいの年齢ではわかりやすい勧善懲悪的な話とか学園ドラマとかが丁度よくって、こんな複雑で深い作品を中高生で理解するってのは中々苦しいものがあると思います。仮に頑張って話の流れや内容を理解できたとしても、そこに描かれている深いテーマには中々手が届かないんじゃないかなー。



勿論エヴァって色んな楽しみ方があっていいと思うんですが、僕は「人間ドラマ」としてすごくグッとくるものがあるなと感じてます。14歳のエヴァパイロット達、ネルフやヴンダーの人たちを中心に話は展開して、それぞれの境遇で不安や孤独、責任などに向き合って苦しみもがき、それぞれの形で乗り越えていく。少しづつ前に進んでいく。乗り越えられないままに終わってしまう人もいる。
「使徒との闘い」とか「人類補完計画」とか、シチュエーションとしては非現実的ではあっても、そこに登場する人間はすべてが極めて現実的で、誰もが自分自身の投影のようにも感じられて(特に僕はシンジの内面・ゲンドウの内面)、ことあるごとに共感できるところがある。これは、自分自身が思春期を越えて成長し、大人になって家族も持つようになった今だからこそ感じられるような感覚なのかな。「人類補完計画」っていう発想とか「ATフィールド(作中では心の壁って言われてます)」っていう概念も、決して非現実的なものではなくて、普段の自分たちの生活の中に普通にあるものなんだと思うし、それにただ気づいていないだけなんじゃないかしら?人間はみんな「不安」を抱えて生きている。その不安との闘いが壮大な宇宙的スケールに拡張されて展開したのがエヴァンゲリオンなんじゃないか。色々難解な用語や伏線があったりするけど、結局は「人のこころ」を描いている。僕はそんな風に解釈しています。




で、今回のシン・エヴァンゲリオンで何よりも特徴的だったのが、碇ゲンドウを軸とした補完計画の発動という場面。旧作ではシンジやアスカの精神世界について嫌になるくらい強く描写されていたのですが、ゲンドウについてはほとんど触れられていません。旧劇場版でレイとの融合を拒否された後、補完計画が発動してからのシーンでほんの少し「シンジへの恐怖」について語られてはいましたが、そこは割とさらっと流れて行って深堀りされてはいませんでした(「すまなかったなシンジ」という一言はとても印象的ではあったし、それで十分ゲンドウの内面を表してはいるとは思いましたが、、。)。

それが今回、シンジは補完計画が開始する前にすでにレイとの対話やレイ・ミサトの喪失という経験の中で現実世界を受け入れる覚悟ができていて、内面を語る役割を担っていたのがゲンドウになっていたのです。それはいささか意外ではあったけど、よく考えたら旧作の終劇から現在までで20年以上もたっていることを考えると、監督もその分年齢を重ねていっていて、「大人になりながら現実を生きる覚悟を持てない」ゲンドウをしっかり描く動機が自分の中で醸成されていったのかもしれませんね。あと、旧作放映時の観客も同時に同じだけの時間の流れを経てきているので、そういう意味でも旧劇と同じような展開はあり得なかったように思います。

旧作アニメ版は「全てのチルドレンにおめでとう」という作中の言葉が示しているように、大人に向かっていく子どもたちを物語の中心に据えていたけれど、大人にたどり着いてしまった人たちは?親になってしまった人たちは?人間の抱える心の不安・恐怖・孤独は、何も子どもだけが抱えているわけではない。「人類補完計画」と言いながら、「人類全体の心」について語りつくされていなかったのではないか?監督はそういった消化不良になった部分を回収したかったのかもしれません。もちろん僕の勝手な想像ですけど。



ではなぜ今回のシン・エヴァでは、シンジが旧劇ではできなかった現実世界での心の補完を行うことができたのか?ゲンドウとの違いは何だったのか?それは村の生活の中で人間の感情を学んだレイが、「(みんながシンジに優しくするのは)碇君のことが好きだから」というストレートな言葉を伝えたからではないのかな?と思います。旧作でシンジは「みんな僕を裏切るんだ」とか「みんな僕のことが嫌いなんだ」とか「みんな気持ちを曖昧なままにしておくんだ」と自問自答して、「他人への恐怖」から精神崩壊していってしまうのですが、率直に「みんなシンジが好きなんだよ」っていう言葉を伝えられることで、一気に心が浄化されたんじゃないかな。

新劇場版Qの終わった時点では旧作と同じような状態にまで心が荒んでしまっていたシンジが、まるで赤ん坊のような純粋さで自分と向き合ったレイのおかげで救われた。レイに対して「本当の綾波じゃない」と言って拒絶していた自分に対して、それでもその存在を無条件で受け入れて「好きだ」と言ったレイの言葉は、シンジに欠けていた「母性愛」のようなものとして彼を包み込んでくれたに違いない。アスカがケンスケから「父性愛」とでも言える優しさや包容を受けて大人になったように、シンジはレイから「母性愛」を受け取った。それで「自分を好きだと感じる」、「自分を認める」こともできて、初めて他人を好きになれた。

ゲンドウはユイ以外の人間を拒絶してしまって、愛を受け取ることができなくなってしまった。誰かを愛するためには自分が自分を愛せなくてはならない。自分への愛がないから他人も愛せない。自分を認めることができない。ゲンドウとシンジの大きな差が「愛」だったのかもしれません。うーん、てことはやっぱり人間には「愛」が必要だよってか??


(でも実はゲンドウは、既に過去にPSPゲーム版で補完されていたという事実を知って衝撃を受けました。。メタすぎる)









ところで、こんな風に観客を捉えて離さない映画っていうのは素晴らしいんだと思うけど、一方で「中毒」のように抜け出せなくなってしまう面もあって、怖いなって思うこともあります。そういえばアニメの「攻殻機動隊 SAC」「タチコマの家出 映画監督の夢」っていう話で、一度その映画を観たら誰もが感動しすぎて現実に帰れなくなるような映画を生み出した映画監督っていうのが出てきてて、草薙少佐がそれを批判していた場面があったんですが、なんかエヴァンゲリオンっていうコンテンツはそれに似てるなーと思いました。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第十二話『タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM』 海外の反応 - そとはん





攻殻機動隊SAC タチコマの家出 映画監督の夢の1シーン


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監督ここの観客の中には現実に戻った途端に不幸が待ち受けている奴もいる。そういう連中の夢を取り上げて、あんたは責任を負えるのかね

少佐負えないわ。でも夢は現実の中で戦ってこそ意味がある、他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」

監督リアリストだな

少佐現実逃避をロマンチストと呼ぶならね

監督強い娘よの、いつかあんたの信じる現実が作れたら呼んでくれ。その時ワシらはこの映画館を出ていこう





エヴァは観客をいい意味でも悪い意味でも捉えて離さない。それはいろんなところでも言われているけど、今回の作品は、庵野監督自身のそういった「中毒性」というか「無責任さ」への反省っていうのもあったのかも?だからこそ、きちんと「終劇」を迎えさせたかったのかもしれません。

そう考えると、「シン・エヴァンゲリオン」での終局は庵野監督の優しさなのかもしれない。悲しいかもしれないけど現実には戻らなきゃいけないっていう、厳しさと背中合わせになっている優しさみたいな。それが何だか僕には作中のシンジに対するアスカの態度とすごく重なってきます。



ちなみにアスカってどの作品でもひたすら救われない感じで描かれていて監督はアスカが嫌いなんじゃないかって言われたりもするけど、僕はむしろ真逆なんじゃないかって考えてます。むしろ好きすぎて、誰のものにもなってほしくないから、だから殺しちゃう(実際には生きてるけど、、、でもそれに限りなく近い描写)。もちろん監督自身の内面なんて本人にしかわかりませんが、僕はそうあってほしいなあと思うわけです。

旧劇場版の最後の場面でシンジがアスカの首を絞めるシーンがありますけど、監督曰く元ネタは実在のカップル(か夫婦か?忘れましたが、、、)らしいです。別れを切り出された男が逆上して女の首を絞めた話ということなんですが、この「首を絞める」っていうのも、愛憎の入り混じった、永遠に失いたくないというシンジの恐怖からでた行為のように僕は思うのですが、監督のアスカの描き方ってそれと同じようなものだったりして?好きのエネルギーが極まで行って反転したような感じ?

規制だらけ!『旧劇場版エヴァンゲリオン』のトラウマシーンまとめ - Hachibachi


アスカはアスカでシンジに厳しく当たっているけど、それは彼女の強すぎる好意と優しさの反転したものだと僕は思うし、それが今回のシン・エヴァではものすごく色濃く表れていて、最後の旧劇場版と同じ海岸のシーンは、アスカの一途さというか、大人になった透明感みたいなものを感じて、美しくて僕はもう感動してしまいましたよほんとに。あのシーンを観るためだけにもう一回映画観たいって思うくらい!特典の書下ろしイラストもアスカだし、これはどう考えても監督はアスカ大好きだろって、僕は思いますねー。もちろん僕も大好きですけどね!


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って、ちょっと話の筋がずれてしまいましたが、「シン・エヴァンゲリオン」で庵野監督は大いなる反省をもって、厳しさと優しさでもって観客を現実に引き戻してくれたんだと思います。そういえばこれって今思えば、旧劇場版でシンジの意識の中でレイと対話するシーンが描写していたことだったんじゃないか??



旧劇場版「Air/まごころを、君に」の1シーン

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レイ「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは、現実の続き」
シンジ「僕の、現実はどこ?」
レイ「それは、夢の終わりよ」





映画はあくまで「現実の埋め合わせ」・「虚構」にしか過ぎない。現実から目を背けちゃいけない、いつかは現実に帰らなくちゃいけない。旧劇場版で既に言葉として語られていたことを、作品そのもので表現したのが今回の作品だった?僕たち観客は夢の終わりを受け入れて、現実を生きなければならない。それはとても苦しいこと。

でも、シン・エヴァの作中ではシンジとアスカがお互いに好きだったことを告白し、それを青春時代の思い出として胸にしまい、それぞれ前に進んでいくことができた。これは、夢や虚構を「忘れろ」とか「捨てろ」って言ってるんじゃなくて、「思い出として大切に胸にしまっていていいんだよ」っていう監督からのメッセージのようにも感じました。それにしても、こんなに観客と監督がつながっている作品って中々ないんじゃないでしょうか??







エヴァが終わった今、新しい「現実の埋め合わせ」を求めてハイカイするのか、現実を受け入れて生きていくのか、オリジナルの模倣によるStand Alone Complexのようなものが生まれるのか。今生きているのは夢から戻るに値する現実なのだろうか。






1つの長大な詩のピリオドを、僕は自分の涙で打とうと思う。







てことで、今日はこれでお終い!




À bientôt !!






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(今回の記事はまったくもってフランス語と関係ないですが、悪しからず、、、、)








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