子育てダンサーkazmagnumの、フランス語つまみ食い生活(海外時事ニュース)

なんとなく独学で始めたフランス語をダラダラ続けながら、 2人の息子(1歳児と2歳ポメラニアン)の育児に踊り狂っております

主にフランスの新聞(ルモンド、リベラシオン、フィガロの3紙)の記事と、その中のフランス語フレーズをご紹介しています。仏検対策なんかにいいかも??なんて思ったり。

あと、日常生活の事なんかもたまーに挙げていこうと思ってます!

よろしくお願いしまーす。

こんにちは、カズマグナムです。


私事ですが、昨日カズマグナム3号(次男)が産まれました!パチパチパチ。
(ちなみに次男がなぜ3号かというと、僕を1号と考えて長男が2号だからってことです。でもこの場合、僕を0号と考えたほうが良かったのかな?とも思ったりしましたが、面倒くさいからまあいいやってことで、この方針でいきます。どうでもいいと思いますが、、、)


前回は陣痛が来る前に破水して即入院。陣痛来るまで20時間くらいかかって、最後は吸引分娩っていうかなりの長丁場で大変な(勿論もっと大変な人は沢山いると思いますが)出産だったんですが、今回は朝に陣痛が来始めて夕方頃に入院、入院後2時間くらいで出産、というスムーズさ。

経産婦だとこうも違うのか、たまたまなのか分かりませんが、とにかく母子ともに健康だったので一安心です。




で、産まれてきた子の顔を見てびっくり。


なんと、カズマグナム2号(長男)が産まれてきたときと全くと言っていいほど同じ顔で、最初写真を見たときは奥さんがカズマグナム2号の写真を送ってきたのかと本気で思ったくらい。2度見どころか3度見4度見しましたよ。

いくら兄弟だからってここまで同じになることも珍しいよなーと思いつつ、成長したらどんな風になっていくのか、兄弟同じような顔になるのかそうでないのか、今から超楽しみです!


でもまたバタバタする生活がやってくるので、楽しんでる余裕もないかも?さて、どうなることやら。






てことで、今日の記事をご紹介しますー。





↓(フィガロの記事)

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↓(記事のリンク)

今回の紹介記事







タイトルは、
「2021年セザール賞:<Mignonnes>のFathia Youssouf(ファティア・ユスフ)が14歳で有望女優賞を受賞」
という感じでしょうか。







フランスの「アカデミー賞」に位置づけられているセザール賞の有望女優賞を、事前の公開ノミネート者に名前が無かったアフリカ系の少女が受賞し、話題になっています。



セネガル系フランス人女性の映画監督Maïmouna Doucouréの映画にエイミー役で出演し、受賞した14歳のFatiha Youssoufは、演技を専門で学んだことはないにも関わらず、その演技で監督の心を揺さぶり(pleuré face à la performance)700人もの候補者の中から選ばれました。


Fathiaが演じたのはダンスが好きで溌溂な反面、大人になることに抑圧を感じ、家族の中の宗教的伝統文化と友人との関わりとの狭間で罪悪感を抱いている12歳の少女です。映画の年齢設定が実際の彼女の年齢と違うのは、新型コロナウイルスの影響により映画の製作・公開が遅れてしまったことが原因のようです。



批評家から絶賛されたMaïmouna Doucouré監督の受賞作品は今回が2作目で、2018年にMaman(s)という最初の短編映画を発表しているものの、描写が<hypersexualité(色欲的)>であると批判を受けて、トルコでは上映禁止にまでなっていたようです。



今回さらに異例だったのは、受賞したFathiaが事前に選ばれていた24人の候補者(révélation)に入っていなかったことです。有望女優賞の投票に関わった人物は、révélationはあくまて参考に過ぎず、Fathiaが際立った才能を持っていたことが今回の受賞に繋がったのだと語っているようです。




<今日のフレーズ>
今回は、監督の処女作が批判を受けたことに対してのFathiaさんのコメントをご紹介します。


« Ça ne m’a pas affectée. J’ai pensé que ces gens n’avaient pas compris le message du film, qui dit qu’il faut grandir avec son âge, pas trop vite, et faire ce qu’on aime sans se fier au regard des autres ».


「(批判があったことは)私には影響を与えていません。批判をする人たちは、年齢とともにゆっくりと成長し、他人の目線を気にせずに自分の好きなことをすべきだ、という映画のメッセージを理解できなかったのだと思います。」






映画で子役が評価されることってそんなに珍しくもない気がするけど、アフリカ系でかつ女性という点は画期的だと思います。近年は多くの映画賞で「非白人」とか「女性」といった、これまで受賞から遠いとされていた人たちが賞を受けるケースが増えている気がしますねー。


女性や非白人、性的少数者などが正当に評価されていないことの批判からそういった流れができてきてること自体はまあそれでいいんですが、ただ逆にそういった人々への受賞が目立ち過ぎてて、個人的にはそれが却って批判を受けないためのアカデミーの態度のようにも思えてきちゃいます。「こういう人たちにちゃんと賞与えてたらそれでいいんでしょ」みたいな。勿論これは僕の勝手な想像なので実際はそうじゃないのかもしれませんが、でもそういう可能性はある。


僕は「配慮をする」っていうことと「正当に評価をする」ってこととはちょっと違うんじゃないかと思うのです。性別とか人種とか関係なく実力で正当に評価されてこそ賞に価値があると思うので、これまでのように「 男性」であっても「白人」であっても、評価されるべき人は評価されるべきだし、女性とか非白人だからといって色眼鏡で評価することはあってはなりません。

企業とかで「幹部女性登用率〇〇%を目指す」、とかよくありますけど、社会の流れを変えるキッカケとしてはそれは大切な動きですが、流れに乗ってきたらそういう数値目標はむしろなくなったほうがいいんじゃないだろうか。そうしないと、本来実力が伴わない人を数字を達成するためにだけ評価するということが起きてしまいます。


世間の声とか時代の流れがあると、どういった決定を下してもどこかしらから批判を受けると思うのですが、批判を避けようとして政治的に評価を下すのではなくて、結果に対して「納得できる説明」ができるように努力をする必要があります。形だけ整えて説明責任を果たさない、という態度は特に日本の政治家には多い(日本に住んてるから日本の政治家のことしかあまり知らないってことなんですが、、、)ので、胆力のある責任者がもっと増えてきたら(特に日本の首相は頼りなさすぎる、、)いいのになー(自分もそうならないとなー)と思う今日このごろ。








てことで、今日はこれでお終い!




À bientôt !!






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こんにちは、カズマグナムです。


いつもはフランス語の記事やフレーズをだらだらと紹介しているのですが、今日は今更ながらアニメの「エヴァンゲリオン」について頭に溜まっている思考を吐き出しておきたい気分になったので、超自己満足的な内容を書いてみたいと思います。ちなみに内容の解説・考察的な記事は巷に溢れているので、そういったものはあまり書くつもりはありません。

一体唐突に何なんだ??って感じですが、25年も前にテレビで放映されて以来断続的に作品がリビルドされて愛され続けていた類まれなメガコンテンツであるエヴァが、最新作「シン・エヴァンゲリオン」としてついに終局を迎え、なんだか感極まって思いがあふれてきてしまったので、それを浄化したいがための記事ってことで、興味のない人はスルーしてくださいまし!



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これまでのアニメ版や旧劇場版では「終劇」と言いながら全然終わった感がなく、むしろ様々な解釈や疑問を喚起するような、一切を観客に委ねる「放置プレイ」的な内容だったので、もしや今回も??というファンの声も多かったようですが、いやはや、もうどうしようもないくらいに「終劇」を迎えましたねー。勿論色々な捉え方や「その後」を巡る論争はあると思いますが、とにかく終わった。嬉しいような、悲しいような。いや、「悲しい」の方が圧倒的に気持ちとしては大きいけど、いつまでもズルズルってわけにもいかないよなー、と自分に言い聞かせています。






なんかものすごく愛にあふれてますって感じで書いてますけど、ちなみに僕自身はテレビ放送時からの往年のファンとかでは全然なくて、ここ一年の間で作品をひたすら観るようになったっていう、まあいわば「超にわか」なのですが、普段それほど特定の作品にはまることがない僕からすれば、エヴァに関しては何度も何度も同じ作品を観返している今の自分がいて、それに驚きを感じています。


特にアニメに関しては僕は普段ほとんど観なくて、これまでにのめりこんだ数少ない作品といえば「ジョジョ」「攻殻機動隊」くらいなものかなー?小学生くらいのときには通り一遍のアニメはもちろん観ていたけど、ずっと好きだっていう作品はそれくらいなもんです。この2つも一筋縄ではいかなくて、だからこそ僕にとっては「何度も読みたくなる・観たくなる」作品ですねー。そこに新たに「エヴァ」が加わったって感じです。アニメにそれほど没頭していない僕ですら夢中になるくらいなんだから、やっぱりエヴァってすごいコンテンツってことですね。






で、エヴァって一体何が面白いんだろう?って改めて考えてみると、映画に限らず本でもそうなのですが、多分僕はどちらかというと「わかりやすい」とか「すっきりする」ような作品にはあまり惹かれなくて、観た後に「??」がいっぱい残るようなものに魅力を感じるところがあると思います。「分かりやすい」作品は一度観たらそれで満足してしまってもう一回観ようっていう気にならないし、観客にわかりやすいように作ろうっていう「作者の媚び」みたいなものがある気がしてどうしても冷めてしまうんです。

一方でエヴァは「難解」ってよく言われるけど、それは作中で出てくる言葉や状況について明確な説明が一切なくて、観客に理解できるようにしようっていう姿勢が全くない(勿論良い意味で)ところがその理由だと思います。「媚び」の対極にある姿勢。「もっとわかりやすくしろ」っていう声もあるっぽいですが、でも僕はそれこそが作品の魅力なんだと思っています。観客に一切を委ねるってことは、ある意味観客を信頼しているというか、対等な存在として考えているからなんじゃないかなー。「お前らには説明しないとわからないだろ」みたいな傲慢さがないというか。。それに、分かりやすい作品だったら皆これほど夢中にはならなかったと思うなー。色んな解釈や考察が渦巻いて盛り上がるっていうのも、難解だからこそですよねー。フランスの詩人ポール・ヴァレリーが言うところの「詩的なもの」って、こういう作品のことを言うんだろうなーきっと。



詩的なもの。観客を立ち止まらせる、宙づりにする、観客に不意打ちを与えるような作品。観客の意識を覚醒させる、思考を喚起させるような作品。



(ただ、今回のシン・エヴァについてはいささかキャラクターによる説明的なセリフが多くて、詩的魅力という観点から言うと少し残念に感じてしまう所がチラホラあった気がします。。うーん、、)





あと、僕自身今まで全然観なかったのに今になって面白いって感じるようになったのは、多分それ相応に年を取ったっていうのも1つあるんじゃないかなーと思ってます。仮にタイムリーに観ていたとすると、テレビ放映時は10歳くらいってことになるのですが、そんな年齢でエヴァを観たって多分全然理解できないし、「わけわかんねー」で終わってしまって、そのせいで「もう二度と観るか」ってなってたかも。そのくらいの年齢ではわかりやすい勧善懲悪的な話とか学園ドラマとかが丁度よくって、こんな複雑で深い作品を中高生で理解するってのは中々苦しいものがあると思います。仮に頑張って話の流れや内容を理解できたとしても、そこに描かれている深いテーマには中々手が届かないんじゃないかなー。



勿論エヴァって色んな楽しみ方があっていいと思うんですが、僕は「人間ドラマ」としてすごくグッとくるものがあるなと感じてます。14歳のエヴァパイロット達、ネルフやヴンダーの人たちを中心に話は展開して、それぞれの境遇で不安や孤独、責任などに向き合って苦しみもがき、それぞれの形で乗り越えていく。少しづつ前に進んでいく。乗り越えられないままに終わってしまう人もいる。
「使徒との闘い」とか「人類補完計画」とか、シチュエーションとしては非現実的ではあっても、そこに登場する人間はすべてが極めて現実的で、誰もが自分自身の投影のようにも感じられて(特に僕はシンジの内面・ゲンドウの内面)、ことあるごとに共感できるところがある。これは、自分自身が思春期を越えて成長し、大人になって家族も持つようになった今だからこそ感じられるような感覚なのかな。「人類補完計画」っていう発想とか「ATフィールド(作中では心の壁って言われてます)」っていう概念も、決して非現実的なものではなくて、普段の自分たちの生活の中に普通にあるものなんだと思うし、それにただ気づいていないだけなんじゃないかしら?人間はみんな「不安」を抱えて生きている。その不安との闘いが壮大な宇宙的スケールに拡張されて展開したのがエヴァンゲリオンなんじゃないか。色々難解な用語や伏線があったりするけど、結局は「人のこころ」を描いている。僕はそんな風に解釈しています。




で、今回のシン・エヴァンゲリオンで何よりも特徴的だったのが、碇ゲンドウを軸とした補完計画の発動という場面。旧作ではシンジやアスカの精神世界について嫌になるくらい強く描写されていたのですが、ゲンドウについてはほとんど触れられていません。旧劇場版でレイとの融合を拒否された後、補完計画が発動してからのシーンでほんの少し「シンジへの恐怖」について語られてはいましたが、そこは割とさらっと流れて行って深堀りされてはいませんでした(「すまなかったなシンジ」という一言はとても印象的ではあったし、それで十分ゲンドウの内面を表してはいるとは思いましたが、、。)。

それが今回、シンジは補完計画が開始する前にすでにレイとの対話やレイ・ミサトの喪失という経験の中で現実世界を受け入れる覚悟ができていて、内面を語る役割を担っていたのがゲンドウになっていたのです。それはいささか意外ではあったけど、よく考えたら旧作の終劇から現在までで20年以上もたっていることを考えると、監督もその分年齢を重ねていっていて、「大人になりながら現実を生きる覚悟を持てない」ゲンドウをしっかり描く動機が自分の中で醸成されていったのかもしれませんね。あと、旧作放映時の観客も同時に同じだけの時間の流れを経てきているので、そういう意味でも旧劇と同じような展開はあり得なかったように思います。

旧作アニメ版は「全てのチルドレンにおめでとう」という作中の言葉が示しているように、大人に向かっていく子どもたちを物語の中心に据えていたけれど、大人にたどり着いてしまった人たちは?親になってしまった人たちは?人間の抱える心の不安・恐怖・孤独は、何も子どもだけが抱えているわけではない。「人類補完計画」と言いながら、「人類全体の心」について語りつくされていなかったのではないか?監督はそういった消化不良になった部分を回収したかったのかもしれません。もちろん僕の勝手な想像ですけど。



ではなぜ今回のシン・エヴァでは、シンジが旧劇ではできなかった現実世界での心の補完を行うことができたのか?ゲンドウとの違いは何だったのか?それは村の生活の中で人間の感情を学んだレイが、「(みんながシンジに優しくするのは)碇君のことが好きだから」というストレートな言葉を伝えたからではないのかな?と思います。旧作でシンジは「みんな僕を裏切るんだ」とか「みんな僕のことが嫌いなんだ」とか「みんな気持ちを曖昧なままにしておくんだ」と自問自答して、「他人への恐怖」から精神崩壊していってしまうのですが、率直に「みんなシンジが好きなんだよ」っていう言葉を伝えられることで、一気に心が浄化されたんじゃないかな。

新劇場版Qの終わった時点では旧作と同じような状態にまで心が荒んでしまっていたシンジが、まるで赤ん坊のような純粋さで自分と向き合ったレイのおかげで救われた。レイに対して「本当の綾波じゃない」と言って拒絶していた自分に対して、それでもその存在を無条件で受け入れて「好きだ」と言ったレイの言葉は、シンジに欠けていた「母性愛」のようなものとして彼を包み込んでくれたに違いない。アスカがケンスケから「父性愛」とでも言える優しさや包容を受けて大人になったように、シンジはレイから「母性愛」を受け取った。それで「自分を好きだと感じる」、「自分を認める」こともできて、初めて他人を好きになれた。

ゲンドウはユイ以外の人間を拒絶してしまって、愛を受け取ることができなくなってしまった。誰かを愛するためには自分が自分を愛せなくてはならない。自分への愛がないから他人も愛せない。自分を認めることができない。ゲンドウとシンジの大きな差が「愛」だったのかもしれません。うーん、てことはやっぱり人間には「愛」が必要だよってか??


(でも実はゲンドウは、既に過去にPSPゲーム版で補完されていたという事実を知って衝撃を受けました。。メタすぎる)









ところで、こんな風に観客を捉えて離さない映画っていうのは素晴らしいんだと思うけど、一方で「中毒」のように抜け出せなくなってしまう面もあって、怖いなって思うこともあります。そういえばアニメの「攻殻機動隊 SAC」「タチコマの家出 映画監督の夢」っていう話で、一度その映画を観たら誰もが感動しすぎて現実に帰れなくなるような映画を生み出した映画監督っていうのが出てきてて、草薙少佐がそれを批判していた場面があったんですが、なんかエヴァンゲリオンっていうコンテンツはそれに似てるなーと思いました。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第十二話『タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM』 海外の反応 - そとはん





攻殻機動隊SAC タチコマの家出 映画監督の夢の1シーン


攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第十二話『タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM』 海外の反応 - そとはん

監督ここの観客の中には現実に戻った途端に不幸が待ち受けている奴もいる。そういう連中の夢を取り上げて、あんたは責任を負えるのかね

少佐負えないわ。でも夢は現実の中で戦ってこそ意味がある、他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」

監督リアリストだな

少佐現実逃避をロマンチストと呼ぶならね

監督強い娘よの、いつかあんたの信じる現実が作れたら呼んでくれ。その時ワシらはこの映画館を出ていこう





エヴァは観客をいい意味でも悪い意味でも捉えて離さない。それはいろんなところでも言われているけど、今回の作品は、庵野監督自身のそういった「中毒性」というか「無責任さ」への反省っていうのもあったのかも?だからこそ、きちんと「終劇」を迎えさせたかったのかもしれません。

そう考えると、「シン・エヴァンゲリオン」での終局は庵野監督の優しさなのかもしれない。悲しいかもしれないけど現実には戻らなきゃいけないっていう、厳しさと背中合わせになっている優しさみたいな。それが何だか僕には作中のシンジに対するアスカの態度とすごく重なってきます。



ちなみにアスカってどの作品でもひたすら救われない感じで描かれていて監督はアスカが嫌いなんじゃないかって言われたりもするけど、僕はむしろ真逆なんじゃないかって考えてます。むしろ好きすぎて、誰のものにもなってほしくないから、だから殺しちゃう(実際には生きてるけど、、、でもそれに限りなく近い描写)。もちろん監督自身の内面なんて本人にしかわかりませんが、僕はそうあってほしいなあと思うわけです。

旧劇場版の最後の場面でシンジがアスカの首を絞めるシーンがありますけど、監督曰く元ネタは実在のカップル(か夫婦か?忘れましたが、、、)らしいです。別れを切り出された男が逆上して女の首を絞めた話ということなんですが、この「首を絞める」っていうのも、愛憎の入り混じった、永遠に失いたくないというシンジの恐怖からでた行為のように僕は思うのですが、監督のアスカの描き方ってそれと同じようなものだったりして?好きのエネルギーが極まで行って反転したような感じ?

規制だらけ!『旧劇場版エヴァンゲリオン』のトラウマシーンまとめ - Hachibachi


アスカはアスカでシンジに厳しく当たっているけど、それは彼女の強すぎる好意と優しさの反転したものだと僕は思うし、それが今回のシン・エヴァではものすごく色濃く表れていて、最後の旧劇場版と同じ海岸のシーンは、アスカの一途さというか、大人になった透明感みたいなものを感じて、美しくて僕はもう感動してしまいましたよほんとに。あのシーンを観るためだけにもう一回映画観たいって思うくらい!特典の書下ろしイラストもアスカだし、これはどう考えても監督はアスカ大好きだろって、僕は思いますねー。もちろん僕も大好きですけどね!


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って、ちょっと話の筋がずれてしまいましたが、「シン・エヴァンゲリオン」で庵野監督は大いなる反省をもって、厳しさと優しさでもって観客を現実に引き戻してくれたんだと思います。そういえばこれって今思えば、旧劇場版でシンジの意識の中でレイと対話するシーンが描写していたことだったんじゃないか??



旧劇場版「Air/まごころを、君に」の1シーン

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レイ「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは、現実の続き」
シンジ「僕の、現実はどこ?」
レイ「それは、夢の終わりよ」





映画はあくまで「現実の埋め合わせ」・「虚構」にしか過ぎない。現実から目を背けちゃいけない、いつかは現実に帰らなくちゃいけない。旧劇場版で既に言葉として語られていたことを、作品そのもので表現したのが今回の作品だった?僕たち観客は夢の終わりを受け入れて、現実を生きなければならない。それはとても苦しいこと。

でも、シン・エヴァの作中ではシンジとアスカがお互いに好きだったことを告白し、それを青春時代の思い出として胸にしまい、それぞれ前に進んでいくことができた。これは、夢や虚構を「忘れろ」とか「捨てろ」って言ってるんじゃなくて、「思い出として大切に胸にしまっていていいんだよ」っていう監督からのメッセージのようにも感じました。それにしても、こんなに観客と監督がつながっている作品って中々ないんじゃないでしょうか??







エヴァが終わった今、新しい「現実の埋め合わせ」を求めてハイカイするのか、現実を受け入れて生きていくのか、オリジナルの模倣によるStand Alone Complexのようなものが生まれるのか。今生きているのは夢から戻るに値する現実なのだろうか。






1つの長大な詩のピリオドを、僕は自分の涙で打とうと思う。







てことで、今日はこれでお終い!




À bientôt !!






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(今回の記事はまったくもってフランス語と関係ないですが、悪しからず、、、、)








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こんにちは、カズマグナムです。



いやーついに公開されましたねー、シン・エヴァンゲリオン。



アマゾンプライムの序・破・Q同時視聴作戦も観て気分は最高潮にまで高まりつつ、時間がなくて劇場には中々行けないもどかしい毎日。。もう既に観た人のいろんなコメントとかも読みたいけど、一度観るまでは我慢。うー、早く観たい!


テレビ版とか旧劇場版も好きですが、新劇場版はやっぱり映像が美しいのがいいですね。中でも「破」は文句なく素晴らしい構成で何度見ても飽きない安定感があるのは言うまでもないのですが、最初観て「??」だった「Q」も、観るうちにどんどん面白くなってきて、むしろ「破」より中毒性があるなーと最近思います。見る度に新しい発見があって細部の美しさに気付くことができるし、良い場面は何回観てもやっぱり泣けてくる。


一回観てすんなり理解できる作品もそれはそれでいいのかもしれませんが、何回も観ないと本当の魅力がわからない、何回も観たいと思わせる映画というのは本当に凄いなと思います。アニメ版からずっとそうですが、客に媚びない一貫した世界観には心地よさすら感じます。

シン・エヴァで本当に終わりになってしまうので、早く観たい気持ちとともに、観たらもう終わりなんだという切なさもあって複雑な気持ちですが、観るまでのこの「モラトリアム期間」を今はじっくり噛み締めて生きていこうと思います!





さて、今日も記事のご紹介!







↓(リベラシオンの記事)

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↓(記事のリンク)
 
今回の紹介記事





タイトルは、
「夜間外出禁止令(couvre-nuit)は止めなければならない」
という内容です。





世界各国が新型コロナウイルスによって自粛生活を強いられている状況下、ナイトクラブなど「夜の生活」を彩る場所は存続が困難になっています。




感染予防の為人の密集を避けなければならない昨今の状況では、クラブやバーなど「集まって愉しむ」ことを目的とした場所は不要不急なものとして閉鎖を避けることができません。
ですが一方でそういった夜の場は、普段の生活で溜まったストレスを掃き出したり、気晴らしや気分転換の手段として、あるいは普段出会わない人同士の出会いの場として人々にとっては欠かせないものでもあります。人はただ働いて生きるだけが目的になってしまうと、自分の存在意義すら見失ってしまいかねません。

実際、フランス人の精神的健康状態についての調査によると、2021年に鬱状態になった人の割合は2020年と比べて約2倍の水準(全調査人数の22%!!
)になっているようです。



このまま自粛が続くとこのような娯楽の場が失われてしまいかねません。La Night Time Industriesの発表によると、何らかの公的な保証が無ければおよそ80%の娯楽の場が1ヶ月以内で閉鎖せざるを得なくなってしまうとのことです。フランスでは昨年の7月から夜の娯楽施設に対する補償が行われていますが、これも2020年末で終了しています。


一方でスペインやイタリアなど他のヨーロッパ諸国は映画館や博物館などの文化施設を徐々に再開させていますが、フランスでは遅れており、俳優など関係者は危機的状況に警鐘を鳴らしています。






人々の豊かな生活のためには夜の娯楽場を見捨てず、入場時のチェックや衛生管理の徹底をしてても再開させなければなりません。それによって俳優や技術者など文化芸術に関わる人々の生活を支え、早期に外出禁止生活を終わらせなければなりません。




<今日のフレーズ>
今日は記事冒頭、夜間外出禁止令の人々への影響について語る文章をご紹介します!

"On a raison, quelques heures après l’annonce du couvre-feu, de penser que le pire nous arrive […] parce que se distraire, c’est regarder ailleurs, dans une autre direction, penser autrement. Sans les cultures de la nuit, opéra, bals, boîtes, clubs […], la société fait bien plus que perdre sa soupape, elle se détraque, se dégrade."


「夜間外出禁止令発表の後、間違いなく私達に大変なことが起こると考えられます。なぜなら、(夜間の外出は)気晴らしや気分転換、思考の切り替えに役立っているからです。オペラやバー、クラブといった夜のカルチャーが無ければ、社会は(ストレスなどの)排出弁を失ってしまうばかりか、崩壊してしまいます。」














大阪ではようやく緊急事態宣言が明けましたが、まだまだ自由に楽しめるという雰囲気でもない気がします。また昨年の緊急事態宣言下と比べたら随分ましですが、やっぱり文化を楽しむ場、ストレス発散の場が失われるというのは、生きていくうえでは致命的のように思います。


よく芸術文化は「生きる上で役に立たない」と言われたりしますが、実際はどうでしょうか?むしろ「無くては生きていけないもの」なんじゃないだろうか?


ただ衣食住が整ってその日その日の生活を営むだけが「生きる」というのであれば確かにそうかもしれませんが、何の愉しみも娯楽もない生活を送ることが、幸福で望ましいものなのか?






役に立つとか立たないという尺度で物事を判断するから、「不要不急」といって真っ先に切り捨てられてしまう文化芸術。きっと無くなって取り返しのつかないことになって初めてその大切さに気付くんだろうなーと思います。

日本の政治家たちはこれまで勉強ばっかりして文化芸術に触れてこなかった人ばっかりな気がします。いや、触れてはいるんだろうけど、ただ文化芸術を「消費」するだけで、そこに携わる人々への敬意はなく、彼らの生活にまで頭が回らない。文化芸術は「あって当然」と思っているのだろーか?多分自分たちは不景気でもクビになるわけではないから、そういう生活感覚が全くないんだろうなあ。文化芸術に限らず、とにかく政治家の感覚と市民の感覚にはいつも大きなズレがあるように思います。もっと苦労しろ!って言いたいですねほんとに。










それはともかくとして、はやく通常通り娯楽を楽しめる世の中になって欲しいものですねー。






てことで、今日はこれでお終い!




À bientôt !!






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こんにちは、カズマグナムです。



今回の記事は脳の働きや記憶についての内容なのですが、最近「学習」というワードでよく付随してくるのがICT(internet and communication technology)化という流れ。まあ簡単に言えば、あらゆる学習活動をコンピューターやインターネットでやってしまおうというものです。勿論現在は学習に限らず、もはや世の中全てがICT化されつつある時代でもあります。

ただ、僕も一応教育に携わっている人間で例にもれずICTはかなり利用していて、どちらかと言えば恩恵をどっぷり受けている方なのですが、正直ICTそのものによる学習効果には疑問を感じます。それにICT化がもたらす未来についても。


ICTの利点は一言で言えば「効率化」「便利」といった言葉に集約されると思います。それによって人間の手間が省けるし、人間がやるよりもっと複雑なことをコンピューターで簡単にできるようになる。わざわざ遠くの人に会いに行かなくてもPC上で用件はすんでしまう。省けた時間で人間は創造的な活動を行うことができるなどなど( 時間ができたからって人間は創造的になれないのはまあ自明のことなんですけど)。数年前まではほとんど目にすることもなかったリモートワークやテレワークなんて言葉も既に当たり前のワードになっています。


でもこういう利便性の名のもとに間のプロセスをすっ飛ばすことが、果たして喜ばしいことなのか??人を幸せにするのか?何かを失ってはいないのか?


学習でいうと、ノートや教科書を全てタブレットにしてしまおうというのが今の教育界の主流。筆記用具や本はいらない、遠隔授業もできてチョー便利っしょ??てなわけなんですが、それでいいのか?(まあ遠隔授業についてはコロナ感染を避けるという名目でかなりの市民権を得ているわけですが、これは例外中の例外なのでひとまず考えないこととして)

学習がICT化されると、例えばお気に入りの筆記用具を揃えたり書きやすいペンにこだわるとか、装丁に惹かれて本を買ってしまうとか古本に時間の経過や歴史を感じ取る、ページを繰る手触りや音を感じるとか、人との直接のやりとりで偶発的に生まれる会話を愉しむとか、握手やハグで距離が縮まるとか、そういった「身体的な活動」が一切失われてしまいます。というか、そういった活動は全て「無駄なもの」として切り捨てられていくのです。本当はそういった「無駄なもの」が人間を豊かにしているのだということに気付かずに。


無駄なものが削ぎ落とされていった先に残っているものというのは、個性が消えてつるつるになった世界。「他者」がいない世界。「身体的な活動」が失われて「頭(イメージ)だけ」になった世界。実体のない世界。

ICTは世の中を良くするというけれど、その結果・未来は来ていないのでまだ誰もどうなるかは知らない。でも僕は、どんどん人間の活動が失われて、個が希薄化して、違いというのもなくなって、最後には人間が存在する意味すらなくなってしまうんじゃないかって思ってしまいます。





とまあこんなことを考えたのも、今日Netflixでクリント・イーストウッドの「マディソン郡の橋」を観たから。

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どういうことかというと、この映画は夫と子供のいる農家の主婦が、家族が出かけている4日間の間にたまたま出会った写真家の男と「一生に一度の確かな愛」を感じ合いつつも、現実の生活からは逃れられず涙ながらの別れをする、二人はもはや会うことも連絡を取り合うこともできないままに、互いへの愛を大事にしつつ元のまま残りの人生を生きていく。
という、下世話な言い方をすればまあ「不倫」の話なのですが(決して不倫を否定するのではなく、映画自体はめっちゃ感動しますよ!)、今の時代ではこんな話絶対成立しないよなーと思ったわけです僕は。

だって今はみんな携帯電話・スマートフォンを持ってるし、世界中どこにいたってSkypeとかでつながれるし、「 もう一生会えない」なんていう別れは有り得ない。現実にもし同じようなことがあっても「また連絡するねー」で終わってしまう。よく考えたら、なんてつまらないんだこれ!「一期一会」なんて言葉すら最早現実には死語なのかもしれない。。






ICT化はこんな素晴らしい映画の誕生すら不可能にしてしまうのか。と、しみじみと感じられた今日このごろ。何だかもやもやしてしまって前置きがとてつもなく長くなってしまいましたが、今日の記事を以下ご紹介します!









↓(oh chouetteの記事)

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↓(記事のURL)

今回の紹介記事





タイトルは、
「脳が何を学ぶかをどう決めているかがついに判明」
という感じでしょうか。





間脳にある「視床下部」は従来、食欲や性慾、ストレスといった本能的な感覚を司る領域であると考えられていました。ですが、スタンフォード大学と中国の科学者チームで行った研究によると、視床下部の室傍核という領域が「 情報の整理」を担い、学習の質を左右しているということがわかりました。


研究チームはマウスを用い、まず最初に、水を飲むときにそれに先立って匂いの刺激を与えることで、水と匂いという2つの刺激を結びつける作業を行ないました(いわゆる条件付け)。

その後、同じ匂いを嗅がせたあとに不快な強い風をマウスに当てて、今度は風と匂いを結びつました。そしてそのマウスの視床下部の細胞の働きを調べると、半分の領域は匂いに反応し、半分の領域は風に反応しました(水の情報はなくなった。)

さらに、匂いを嗅がせたあとに風よりも不快な刺激である電気刺激を与えて、同様に視床下部の細胞を調べると、予想に反して視床下部の3分の1が匂い、3分の1が風、3分の1が電気刺激に反応するという結果になりました(風の情報はなくならなかった。)

つまり視床下部では、自動的に新たな情報が上書きされるのではなく、必要な情報かそうでないかを選別しているらしい(不快な情報は残りやすい?)ことがわかります。


この結果から研究チームは、視床下部が情報の整理に関わっているのであれば学習にも何かしらの関与をしていると考え、視床下部の働きをコントロールできるよう遺伝的改変を加えたマウスを使った実験を行い、視床下部の働きが学習の質を左右しているらしいことを確かめました。





今回の発見は実際的な治療への応用も考えられています。例えば、視床下部の働きをコントロールすることで薬物やタバコ、アルコールなどから得られる快楽の感覚を消去することで、中毒患者を治療することができる可能性があるというのです。





<今日のフレーズ>
今日は記事の冒頭、未知なる脳についての導入部の文章をご紹介します!


"Le cerveau, malgré la science qui ne cesse de se développer au fil du temps, reste l’un de ces mystères que nous avons encore du mal à percer aujourd’hui, et pour cause : bien que le mythe qui raconte que nous n’utilisons que 10 % de nos capacités cérébrales soit totalement faux, le fait est qu’il reste l’un des organes les moins connus, mais surtout le plus complexe de notre organisme."


「時とともに進歩し続ける科学をもってしても、脳は未だに未解明の謎であり続けています。そのために、私たちは脳の僅か10%しか使っていないという神話は完全に間違いで、実際は、脳は最も複雑な器官でほとんどその仕組みがわかっていないのです。」












学習の質が視床下部の働きと関わりがあるということは、興味がないこと・嫌いなものを学んでもなかなか身につかない(共にストレスを感じる状況下)、良いことよりも嫌なことの方が頭に残りやすい、という事実についても何となく納得できる気がします。


何故そうなのかは良くわからずあくまで僕の勝手な想像ではありますが、元来動物の脳は「快楽を求める・不快を避ける」という方向性に進化しているのかもしれません。ストレス下では学習よりも生存本能に従う行動の方が優先されるとか、不快なことには二度と出会わないように頭により記憶しやすくなってるとか、そういうことなのかも??だから大脳と視床下部は独立器官ではなくて連携し合うようになっている??


また、動物としての本能や基本的な体の神経的・ホルモン代謝的な制御を行っているのが視床下部なので、それをもう少し拡大して考えると、大脳は体全体の働きそのものと繋がっているとも言えるのかもしれません。体が不調であれば脳の記憶にも何かしらの影響があったりするというのは何となく感覚的に頷ける気がするので、体の健康がそのまま脳の働きを向上させることになるのかも。



記事冒頭でも書いたのですが、最近はどんどんICT&効率化の流れが加速してきているし、学習=頭(大脳)っていう単純な構図になっている気がします。便利になればなるほど効率化していって、時間がかかる面倒なプロセスをすっとばした、言い換えれば「体の介在が失われた学習」に変わっていってしまいます。その流れを止めるというのは難しいですが、非効率の中にも学習に寄与するものがある、時間をかけて学んだものほど「体に染み付いて忘れにくい」と僕は考えているので、視床下部が学習に関与しうるという今回の研究は何となくそれを支えるような内容のものでちょっと安心しました。
記事の実験では、視床下部の何をどう刺激して学習効果が変化したのかがよく分からなかったので、もっとはっきりとしたデータが出てくるのか、今後を期待したいと思います。






てことで、今日はこれでお終い!



À bientôt !!






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こんにちは、カズマグナムです。



4月から息子カズマグナム2号が保育園から幼稚園に変わるのですが、今その上で1つ大きな壁が立ちはだかっております。



トイレトレーニング、いわゆるトイトレってやつです。



今カズマグナム2号はまだ2歳8ヶ月で、4月入園時点ではプレにあたる年齢なのですが、そんなことは関係なく入園にあたってはまず「オムツが外れていること」が大前提。夜寝るときを除いて日中はちゃんと一人でトイレにいって用が足せるようになってなければ入園は保留という、中々にハードな要求を突きつけられているのです。


幼稚園では1時間に一回のペースでトイレに連れて行ってくれるみたいなのですが、そのインターバルの間にお漏らししてしまったらヤヴァいですよというわけです。ひぇー。



てことで昨年末から休日や仕事の後など、僕が家で過ごすときは基本的にオムツを外して普通のパンツを履かせて過ごすようにしているのですが、まだまだ成果は出ておりません。

おしっこは最初の頃ダダ漏れだったのが、最近はちゃんと訴えることも少しずつ増えてはきましたが、でもまだたまに失敗もあります。そしてウンチに至ってはほぼ失敗ばかりで、先週ようやく自分で「ウンチしたーい」といってトイレで成功したくらい。それでもたまたまの可能性は大いにあって油断できず、果たして入園までに安定してトイレができるようになるのか??超不安です。


この3月で今の保育園は辞めてしまうし、もし入園できなければ路頭に迷ってしまう。おまけに4月は第二子カズマグナム3号が生まれる予定なので、さらに不安要素が控えていて、一体どうなることやら??まあ焦っても仕方ないというのは頭ではわかっているものの、現実は容赦なく迫ってくるわけで。。



早くトイトレ成功して、ちょっとでも安心できればなあーと思う毎日です。







さてさて、今日も記事のご紹介でーす。





↓(フィガロの記事)

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↓(記事のURL)

今回の紹介記事







タイトルは、
「日本政府、コスプレの規制化を目指す」
という感じでしょうか。







日本のアニメや漫画のブームから、その登場キャラクターに扮する「コスプレ」文化が世界的に広まっています。そして日本政府も「クールジャパン」と銘打って、国をあげて日本のアニメや漫画文化をもっと世界へ発信しアピールしていこうと躍起になっています。

一方で日本政府は、「コスプレは原作者の著作権を侵害する恐れがある」として、SNSなどでコスプレの写真や動画をアップする際には権利者(つまり原作者)へ許可をとり、それにより利益が出た場合は正当な著作権料が支払われるべきだと考えているようです。


コスプレの活動は趣味で行うアマチュアの人々だけでなく、SNSで活動することで収益を得ている「プロ」もいます。コスプレはこれまでこれといったルールがなく曖昧な領域でしたが、今後実際にルール化されれば、規制によって原作者の権利が保護されるようになりそうです。


政府は著作権の有無を調べられるデータベースを作成することを提案していますが、コスプレイヤーからは、直接権利者にコンタクトを取れるように制度を整えて欲しいとの訴えも出ています。


また、規制がコスプレ文化自体の衰退に繋がらないかという点や、「プロ」コスプレイヤーと原作者の利益配分をどうするのかなど、懸念材料もまだまだ残っているようです。


↓こちらは記事で紹介されていたプロコスプレイヤーのえなこさん。政府からクールジャパンアンバサダーに任命されているようで、Instagramで月に1000万くらいの収益を上げているようです!すげー

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<今日のフレーズ>
今日は記事冒頭の、コスプレ文化の世界的広がりについて語る一文をご紹介します!

"Véritable phénomène au Japon et dans le monde, le cosplay pourrait à l'avenir faire l'objet de droits d'auteur. Se déguiser en personnage de manga, de dessin animé ou de jeux vidéo peut représenter une vraie manne financière."

「日本発祥で今や世界中に広がるコスプレ現象が著作権の対象になりそうです。それは、漫画やアニメ、ゲームの登場人物に扮することが利益を生む手段の一つなり得るからです。」

↑ちょっと日本語には接続詞を補いました





キャラクターグッズなどの関連商品はモノとしての値段がはっきり決まっていて、キャラクターの恩恵によって利益を上げているかどうかも明らかなのですが、コスプレで広告収入を得ているという場合はその利益が目に見えにくい部分があって、著作権の問題はこれまで見落とされていたのかも知れませんねー。

確かにグッズやコスプレの広告収入の利益は元になっているキャラクターの人気に左右されるわけで、そう考えると利益の一部が原作者に還元されるのは当然のような気がします。

でも一方で、原作者はもし著作権料がなくても、自分の生み出したキャラクターが広く世間に周知されるという点で間接的に利益を得ていると言えなくもないし、コンテンツの海賊版とか偽ブランドなどはそれが出回ることで元々の作品が明らかに不利益を被るわけだけど、グッズやコスプレによる利益は原作の価値を減らすものではない(むしろ知名度を上げる)のだから、そういう観点でいうと著作権は無くてもいいのでは?という考え方もできるんじゃないかと、ふと思いました。

これはちょっと暴論かもしれませんが、何でもかんでも権利で守るっていうのも、何だかつまらないなーという気がするのです。そりゃお金はほしいだろうけど、著作権フリーになったら広く人々の目に触れやすくなるんだしなー。。それぞれが財産を占有するんじゃなくて、共有するほうが全体として豊かになるんじゃないだろうか、なんて。





まあそんな簡単な話ではないんでしょうけど、、







てことで、今日はこれでお終い!



À bientôt !!






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